ある事実と隣り合わせにある真実について

映画「愛の流刑地」の主演で恋仲の2人、村尾菊治と入江冬香がSEXするシーンから始まるこの映画を例にして、事実と真実について考えてみた。

 

あらすじ

かつて、恋愛小説の期待の星として脚光を浴びていた男、村尾菊治(むらお きくじ)は10年近くも新作を書けず、現在では東京にて既に忘れ去られた小説家として数えられていた。

そんなある日、女友達の紹介によって学生時代から自分のファンであった人妻、入江冬香(いりえ ふゆか)と出会った菊治は、現代の大和撫子を絵に描いたかのような彼女の容姿と所作に以前見た八尾町の「おわら風の盆」を思い出し、強く心惹かれるようになる。そして、冬香をホテルに誘い込んだ菊治は人妻である彼女との性行為に及び、肉体関係となる。

その後も、京都にて菊治との性行為を繰り返す冬香は、今まで夫には感じられなかったほどの激しいエクスタシーを感じるようになる。さらには、夫が東京へ転勤して家族共々住むことになったため、冬香は千駄ケ谷の菊治宅へ通い始める。次第に感じるエクスタシーが激しさを増していく冬香は、夫との性行為を拒絶するほどまでに菊治の愛撫を求めるようになった末、彼との性行為中に「首を絞めて殺して」と口走ってしまう。菊治は冬香の言葉に戸惑うも、彼女の首を絞めるようになったが、ある日いつものように冬香の首を締めていた際にそのまま思わず彼女を殺してしまい、自らの行為に茫然自失となる。やがて、警察に通報した菊治から語られる罪にマスコミが注目する中、事件は裁判へと進んでいく…。(Wikipediaより)

 

皆さんは、事実と真実についてどのように感じただろうか。 

 

あらすじからもわかるように、村尾菊治は入江冬香の言葉「首を絞めて殺して」をそのまま受け入れて実行に移してしまった。

 

第三者からみると、殺人という事実行為は愛するという行為から逸脱している。

 

しかし、2人の間では殺人という事実行為が愛するという真実の行為へと変換されていたのである。

 

つまり、2人の中では「愛しているからこそ、殺してしまった」という事実の中の真実がある。

 

これらは映画の話であるが、私たちが日頃から事実と真実に向き合う機会がどれほどあるだろうか。

 

目に見えない真実こそ大事にし、事実を心で見るように日頃から意識すべきではないだろうか。

 

多様な視点から事実を解釈し、新たな真実から更なる事実を探す旅にでるのも面白いかもしれない。

 

事実はひとつ。真実は複数。